会員のみなさまはご存知と思いますが、白壁先生は日本美容外科学会(JSAPS)の重鎮として著名な先生で、2004年には日本美容外科学会の会長も務められ、当協会(当時は共済会)の黎明期であった2005年より理事として参画していただいております。
東洋人のアンチエイジングに関しては国際的にもご活躍され、院長を務められるサフォクリニックはSMASフェイスリフト手術やBOTOX注射、アンチエイジングプログラム、点滴バー(ドリップバー)などを日本で最初に始めたクリニックとしても有名です。
白壁先生のブログには下記のような一文があり、プロ意識の高いお人柄が伝わってまいります。
「美容医療は他の科目と異なり、患者様に夢を与える仕事である。」
この信念をもって美容外科医として勤めてきました。
これから美容外科医になる若い医師にも是非この信念を伝えていきたいと思っています
「美醜のトレンドと変遷について」
白壁 征夫
この文章は一昨年美容関連の雑誌社から依頼され「日本における美人の変遷」というタイトルで出したものである一部を抜粋して書き出しました。
■日本の美人の歴史を述べる前に少し日本人の骨格の歴史について述べる。
特に縄文時代と弥生時代では、狩猟による動物性蛋白から縄文式の定住による食生活の変化が大きく顔貌の変化がみられた。また縦長の日本列島に移住してきた人種には「北から入ってきた人種」「南方から入ってきた人種」など様々な違いがある。
しかし女性の顔貌に限定していくと、飛鳥時代の高松塚古墳の美人壁画から始まり、明治維新の肖像写真が出るまでは、絵で描かれた肖像画や彫刻だけで美人が評価され、いつの時代も男性のお金持ちである(長者)が絵師に依頼した美人顔であった。それが江戸期に入り浮世絵師が長者ではなく、庶民の好んだ美人を描くようになり、さらに江戸末期から明治維新にかけて、肖像写真が出ることで、美人の評価が金持ちから一般大衆の評価になり日本の美人の基準が大きく変わってきた。
この肖像画から肖像写真に移るまでの日本の美人の変遷につき報告する。
■日本の埴輪から見た顔貌の変化 ~縄文式埴輪と弥生式埴輪から見る顔貌の比較~
縄文式時代は紀元前1万4000年頃から紀元前4世紀頃とされ、狩猟生活をしていたので動物性蛋白を摂取していた関係上、顔の骨の生育が良いため西洋人のように彫りが深いのが特徴である。
一方、弥生式時代は紀元前3世紀から紀元後3世紀までで、稲作による定住生活であるので植物性蛋白が多く、骨の生育が悪く扁平な顔であった。
この写真は、2019年5月にライフ科学で発表された北海道・礼文島の船舶遺跡から発掘した女性の頭蓋骨を国立科学博物館のチームが発掘し、歯から採取したDNAを分析して再現した顔である。
3500~3800年前の縄文式時代の顔で 北海道、縄文式、彫の深い顔を覚えておいていただきたい。
■この顔に関連する面白い文献 ~司馬遼太郎「義経」文藝文庫~
司馬遼太郎は著書文芸文庫「義経」の中で奥州(東北地方)の娘について次のような興味ある文章を書いている。
京都から離れた東北地方(奥州大泉)の金持ち長者達は、都の血を欲することは渇いたものが水を恋うよりも激しい、長者の欲しいものは若者(義経)の扁平な顔であった。
扁平とは鼻は低く、色白で、髭が薄い、瞼は一重、これが若者(義経)のような畿内人の特徴であった。この相貌は、韓国人を祖型としている。
一方奥州の顔は京のことばでいうケビト(毛人)であった。毛が濃く、顔の彫は深く、鼻は低からず、瞼は鮮やかな二重にくびれている。
この祖型は白皙(はくせき)人種の一種とされているアイヌであろう。奥州人はみずからの祖型を恥じ、遠い都の扁平な顔を貴重としてそれを恋うた。偏平の顔が奥州で増えるごとに奥州人は喜び,奥州も「熟した」とした。奥州人の娘は目が胡桃(くるみ)のように大きく、濃い睫毛でふちどられ、その睫毛が風を呼ぶように動く。
時代が変わればこの娘の貌(かお)はよほどの美人とされたのであろうが、若者(義経18歳の鎌倉時代)の時代の貴族の好みは、目の眠れるほどに細く、唇のか細い、いわば韓(から)の王室王女といった貌が良しとされていたから、奥州の娘のような顔は下品でしかない(美しい娘ではない)と若者は思った。(司馬遼太郎「義経」から引用)
この時の美人の条件は、この後も江戸中期まで日本絵画の中で尊重され引き継がれてきた。
それではこの奥州人と京都の機内人の顔はどのように違うのかを示す材料として(当時の畿内人の美人画は沢山あるが奥州人の女性の顔を描いた絵画は無いので)明治に入り写真が出てきた中で、本来は奥州人の顔を出すべきだが無いので、彫の深い薩摩人の顔写真を比較しやすいために参考に出した彫の深い顔と扁平な日本人顔の比較である。
飛鳥時代(592年~710年)の代表的な美人である奈良高松塚古墳の女性の顔も、残っている古墳壁画や画屏風などで一般化された内容ではないとはいえ、限られた階級層の間では、美人として一世を風靡したとされる美人像をみると、このようにふっくらした輪郭と切れ長の目が美人とされた。
美人の基準である畿内人の目が細く、鼻が低く、口が小さく、しもぶくれ顔は、絵や彫刻に携わる絵師の美人としての考えであった。したがって当然奥州の彫の深い美人絵は見当たらない。
次の奈良時代(710年~784年)の代表的な美人である、樹下美人図、鳥毛立女屏風(正倉院宝物)あごがぽっちゃりとして豊満、太い弓なり眉毛、小さい口が美人の基準に準じている。
8世紀の中国唐代に流行した美人画の伝統を踏襲し、額や口元に星や花を描き、鳥毛を身に付けた最新ファッションを反映した「樹下美人図」である。
平安時代(794年~1185年)の美人の代表は小野小町と言われている。
この時代の美人の基準は、しもぶくれ、細い目、太い眉毛、おちょぼ口、とがった小さな鼻、ふっくらした扁平顔、サラサラの長い髪、特に白い肌は絶対条件でこれらを具備した美人が人気であった。又顔が扁平なため正面像では鼻が描けなかった。
ここで、当時何故白い肌と黒い長い髪が絶対条件だったかについて説明すると、平安当時の貴族が暮らしていた宮殿は採光を考えた作りにはなっていなかった。つまり昼間でも明かりが必要なくらい宮殿の奥は暗かったとされている。
この状況の中でもひときわ目立つようにと始まったのが白粉(おしろい)と言われている。
さらに白粉の質の悪さから、時間が経てば乾燥してパリパリと顔から剥がれてしまうので、必然的に厚化粧になり、当時の絵巻をみると扇子(せんす)で顔を隠しながらできるだけ笑ったりしないで、顔から白粉が剥がれるのを防いでいたのが分かる。
さらに顔のバックとして顔を強調し黒髪は白さを引き立たせるためにも必要であった。おそらく現在残っている歌舞伎役者、京都の舞妓の白い厚化粧も、この当時の暗い蝋燭による舞台やお座敷で顔を強調して見せる習慣の名残ではないかと私は思う。
平安時代と現代の美人像を顔のパーツ別に比較すると正反対の様相である (表 -1)
平安時代 |
現代 |
---|---|
目は細い |
丸い大きな目に |
鼻は小さく低い |
高い鼻に |
ふくよかな体型 |
細身な体型へ |
顎は丸い小さな顎先 |
シャープな顎先へ |
口は小さい |
口は大きい |
まぶたは一重 |
まぶたは二重 |
この扁平な美人の基準がはっきりと変化したのが、明治の肖像写真出現であった。
裕福な注文者や絵師の好み関係なく、彫の深い美人が一般大衆から受け入れられた。
原文:日本香粧品学会誌 Vol. 44, No. 2, pp. 105–114 (2020)
〈教育セミナー〉第44回教育セミナー(2019)・「美しさの本質を考える」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/koshohin/44/2/44_440204/_pdf
編集後記:この白壁先生の文章を読みながら『縄文人と弥生人「日本人の起源」』についての論争を思い出しました。美醜については時代とトレンドが評価の物差しとなりますが、人類学とも深く関わっており大変興味深いテーマをいただいたことに感銘を受けました。
美には個人の美醜に対する物差しがあり、その物差しとずれが生じることがトラブルの原因となるのではないか。美容医療の難しさはそこにあるのかも知れません。
(2023年6月20日配信)